1999.12.27号 08:00配信


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第38次南極地域観測隊 ドームふじ観測拠点越冬隊

「食と生活の記録」より


by 西村淳

「そして再び南極へ」

なんとなく忘れ物をしたような気持ちで帰国して早7年の時が刻まれていた。カムバックの気持ちを心に誓っていたはずの元越冬隊員も、ひねればいくらでも出てくる水、新作が並べられるレンタルビデオ点、本屋、コンビニ等の文化生活?にどっぷり肩までひたり、ただの酒好き・ごろ寝好きのおっさんになっていた。
「心に誓った事はどうするんだー!!」なんて天の声が響いていたのかもしれないが、そんなことはどこ吹く風、テレビを見ては馬鹿笑いをし、楽しくないことは極力避け、お気楽な毎日を送っていた。

オホーツクの街「紋別市」に転勤してからもその姿勢は変わらず、春は浜ぼうふうやせり摘みに出かけ、夏はキヤンプ、秋は山葡萄やきのこ狩りと北の自然を満喫し、 毎年新聞やテレビで発表される「しらせ」の南極行にもこれといった興味をしめさず、まあそれなりに楽しく美しい妻と可愛い子供たち(こう書け!と言われた。)に囲まれ、定年まで幸せに過ごしたのでした・・・とはならなかった。

年明け早々の 1996年1月2日、正月休みで札幌の実家へ向かう車の中、天候は吹雪。「あーこれは南極のブリザードみたいだわ。」なんて天を見上げつつブツブツ呟いていたとき、突然携帯電話が鳴りだした。まあ電話のベルは突然鳴るものであるが、 今みたいに携帯着メロがあるわけもなく、無粋な呼び出し音が車内に響き渡った。

「第38次南極地域観測隊越冬隊長の山内です。観測隊候補に選ばれたので行く意志はありますか? もし身体検査が通ったらドーム基地で越冬を予定しているのですがかまいませんか? 詳しいことはetc」との内容。

何がなんだかよくわからず「南極から電話があって、もし行けたら東京ドームで巨人戦を見に行けるとかなんとかって電話だワ」との私に女房は、このアホおやじ!又変なことを言い出した。と表情に浮かべながら「なにそれ?」と無関心な様子・・・。この時点でドーム基地がまさか標高3800m、年平均気温ー57℃、最低気温はー80℃にも達する、ウイルスさえも生存を許されないすさまじい所だとはついぞ気がついていなかった。南極観測隊のマインドコントロールはまさにプロフェッショナルの世界でど素人が短期間に建築物を建てたり、雪上車をメンテナンスしたり、無線機やレーダーやGPSを操作したりなんて事を、出来て当たり前の様に日々教育してくれるので、それまで見たこともなかったそれらの機器や操作法をなんとなく出来るのではといった気持ちに教育してくれる。

まあ「・・もおだてりゃ木にも登るし空も飛ぶ」と言ったところか。それでもこれといった大事故もなく40年もたっているのだから、教育法がいいのか、日本人が優秀なのかとにかくすごいものである。これが38次隊参加の第一歩であった。そして身体検査の日を受けるため、上京した。病院は飯田橋の「厚生年金病院」である。人間ドックの4.8倍くらい厳しい検査を脳波やロールシャッハを含め、3日間に渡って受けた。日頃の怠惰な暮らしのせいか尿酸値や中性脂肪が若干高いと言われ、前の晩30次隊に続き一緒に越冬する予定の「鈴木隊員」と02:00まで親交を暖め合っていたため(呑んでいた)、「あなたのおしっこはほとんどアルコール!!」とドクターにしこたま怒られ、結果は後日ということで無事だったかどうかわからないがとにかく終了した。

3月も終わりになろうとする21日、乗鞍岳で冬期訓練が開始された。冬期訓練とは何をするのか? 裸になって耐寒訓練をしたり、野ネズミやうさぎを捕獲して非常食の訓練なんてのはしない。スノーモービルや雪上車を持ち込んで、内陸旅行に備えた訓練でもするのかと思ったらこれもしない。

では何をするのか? 我がドーム越冬隊候補者に課せられた課題はなんと山スキーを使っての登山訓練と雪中キャンプであった。「いやだ! 詐欺だ! 何の役に立つんだ!」わめきちらしても冷たい視線が帰ってくるだけなので、涙を飲んで訓練開始。前回、菅平で登山訓練をした時缶ジュースを自販機でしこたま仕入れ、山頂で闇屋のごとく立ち回り大成功した事を思い出し、今回もペットボトルのミネラルウォーターをディパックに隠し持ち、喉がからからのみんなに密かに売りつけ、又々大儲けとたくらんだが大失敗! キャンプ地で気づいたのであるが、なんと季節は冬。水の原料の雪が大量にいくらでもあるではないか!!!!!!!!!
かくして 大儲けをたくらんだ「六甲のおいしい水」も大汗の素の単なるバラストとしてその役目を終えた。気温が夜になるとー20℃まで冷え込んだ。夕食はこれまた訓練を兼ねて簡単で体が温まり、カロリーが高い物ただし総予算¥5.000以内とのリクエストで地元の小さなスーパーで、一番安い豚バラ肉のスライスを仕入れ、野菜はタマネギと人参と大根をあらかじめ皮をむいてカットしてポリ袋に詰めてきた。サッポロ一番味噌ラーメンと唐辛子・豆板醤・キムチ・にんにく等の目に付く辛い物を仕入れ、「チゲ風ゴチヤゴチャサッポロ一番味噌ラーメン鍋余ったら朝の雑炊用」にした。ご飯も「食べたらわかるさとうのご飯」の超手抜きキャンプ食。これに同行してきた、山岳ガイドの山本さんが作ってくれた「一杯の紅茶練乳一本すべて投入ミルクテイー」を一緒に食すると、金玉の裏まで冷え切った体がぽかぽかと心地よくなってきた。ここで調子に乗って用意してきたカテイサークを水割りで呑んだのが大失敗。体温はどんどん下がり背骨の奥から震えが押し寄せてきた。  

就寝時は二人一組で簡易テントに・・・。あまりの寒さとバデイの名前は言えないが「鈴木隊員候補」のいびきのうるささに「一睡もできなかったよー」と翌朝文句をたれたが、あっちからも同じ言葉が返ってきたのでこの件は涙を飲んでこれ以上追求することはやめにした。下山していくと、途中で「昭和組」がリフトの辺りで、拍手をして出迎えてくれた。「一晩の苦労を察して温かな友情のエールを送ってくれるなんて」と冬期オリンピックで金メダルのゴールに向かう複合の荻原選手になったような気持ちで、前を通り過ぎたが、後で聞くと「オレンジヤッケにでかいリュックを背負ったおっさん達がペンギンの様によたよた通り過ぎて行くのを見ると、まるでけがをしているボリショイサーカスの熊がちゃりんこの曲芸をこなしているように目に映り、あまりのいたましさにおもわず拍手をしてしまった」のだとか・・・・・・ほっといて下さい。

ともあれけがにんもでず、無事冬期訓練は終了した。その夜に行われた「身体検査に合格して夏訓練で観測隊員になって又再会しよう」宴会の繊細はばれると文部省から予算がうち切られる可能性もあるので○秘だが、ちょこっと教えると便器で寝た者数名、廊下で倒れていた者数名、腕相撲で筋を違えた者1名、女風呂に入って管理人に怒られた者2名、酒乱がばれた者数名等々であった。尚申し添えると、私の身体検査は結局再検査となった。内科のはずが なぜか泌尿器科で検査となり、親にも見せたことのない姿、しかも美人のドクターの前で恥ずかしいポーズを取ること3秒、無罪放免となり夏訓練も無事終了し1996年7月1日付けを持って、南極地域観測隊を拝命し「国立極地研究所」に詰める事となった。





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