2000.1.18号 08:30配信


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第38次南極地域観測隊 ドームふじ観測拠点越冬隊

「食と生活の記録」より/by 西村淳



「そしてドームへ2」

南極はどこまで行っても景色が変わらない。まるでカラーコピーしたようにどこまでいっても白・白・白。おまけに内陸に入るにつれて天気もどんどんよくなってきて、毎日がどぴーかんの快晴の日々が続く。前の雪上車のトレースを頼りに進んでいくと頭も段々ぼんやりしてきて、半分寝ているような起きているような妙な気分になってくる。「下は真っ白で、空は真っ青・・・ああこれは巡視船の色だわ・・」等と、しょうもない事ばかりぼんやりと考えながら、ごとごと進んでいく。毎日が単調・単調・丹頂千歳鶴の世界である。

私の横に座っているのは報道で同行してきたその筋では有名なカメラマンの「宮嶋 茂樹氏」。自衛隊の突撃取材やオウO真理教の超望遠取材などでマスコミに登場している御仁であるが、まあこの男のぼやくこと、ぼやくこと「なんでこんな所にきたんやろー、やっとれませんワー、こういう大変な経験は一生の内で経験しなくてもいい体験ですワー」
      
帰国後新潮社から「不肖 宮嶋」という本が刊行されたが、まあこれがなんともすごいしろもので、我がドーム越冬隊からは「告訴してやるー!!!」と言う声が多々聞かれた。私も「みずほ基地」でうんこが途中で凍ってしまって往生したおじさんになっていた。南極観測隊も女装好きで、大酒飲み。おまけにむさ苦しく、小汚く、中国人の交換科学者は諜報部員にされてしまうし、毎日宮嶋氏はファインダーを覗きながら観測隊の将来を心から憂いていた事になっていた。まあ確かに、観測隊の中には「高倉健」も「渡瀬恒彦」もいなかったが、雪を食べては凍り付いて血を流し、燃料を垂れ流して、全員を命の危険にさらした人はいなかった。ちょっと近い人もいたが・・・・・。まあごく普通?の人の集まりが南極観測隊員なのであるが、彼の本の中では、みんなが道化になり、週刊誌に掲載され、しかもこちらははるか15000kmの彼方である。それが後の事ではあるがちょっと悲しかった。

まあそれはさておきとにかくドームへである。毎日の流れの中で定常の種々の観測もおこなわれているが、これも単調なリズムの中にいつしか組み込まれてしまっていた。一日の生活の最後を飾るというか重要なポイントになるのが、その日のキャンプ地に到着してみんな一緒に雪上車の中でとる夕食である。私のいつも乗っていたSM105という車が一応食堂車になっていたが、キャンプ地に全車が集合するのが各車のパワーの違いや、各種観測を途中で行うせいで、早くて21:00頃へたをすると24:00を回ってしまうなんてこともしょっちゅうあった。まあいくら遅くなってもこの時期の南極は夜がないから、気温が下がってくるだけでいつまでも明るいままである。

大型雪上車は20トン以上の荷物を引っ張っていたが、そのありあまるパワーでいつも最初の2、3台目にキャンプ地に着いていた。キャンプ地に着くとまずは命の綱の雪上車の給油・メンテナンスをおこない、早速食事の支度である。車のすぐ後ろにつないである周囲をベニヤ板で囲った橇・・・箱橇と呼ばれたが、これが旅行中の食糧橇となっていた。ここからその日のメニューを適当に決めて日替わりで変わる当番のサポートしてくれる隊員と一緒に、橇のラッシングをといてかちかちの食糧を引っぱり出してくる。レーションといっても何種類かのインスタント物をのぞけば、ほとんどが原料そのままである。これが越冬を終了して帰る頃には、基地で越冬中に作ったちょっと熱を加えるだけで簡単に食べられる本当の意味でのレーションが、大量にあるところなのだがまだ始めの内はそうもいかない。又設備ほとんど家庭の小さな台所に毛もはえていないようなもので、こぎれいな台所で可愛らしい料理を作っている主婦をここに連れてきたら、まずは沈黙・・・目点・・その後で絶望・・・・カップラーメン・カップラーメン・カップラーメンと言う所か。でも高校時代可憐な美少女だった我妻「みゆきちゃん」も、今では号令一過、我が家族を完全にその掌握下においているから、案外女性をここに連れてきた方が毎日をたくましく、エネルギッシュに過ごしていくのかも知れない。




「一面の・・・・」 提供: 山梨大学 竹内 智
注意:写真はすべて国立極地研究所に属します。
個人で楽しむ以外(メディア等への掲載)は禁止します。



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