2001.4.3号 07:00配信


豊かさのものさし

(紋別市社会福祉協議会:篠原辰二)


「豊かな暮らし」を思い浮かべたときに、何を思うだろう。日常の暮らしの「日常」とは何だろう。「普通」とはいったい…?それらを測る全てのものさしは自分の心の中にある形のないモノだろう。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスロシアそして日本。これらの国はどこも先進国と呼ばれている。そして、それらの国よりも経済面等に関して劣っていると見なしているところは発展途上国とよばれる。自然の豊かさ、文化と人間社会の結びつき、生きることのひたむきさ、こういったものははるかに先進国と呼ばれている国々の方が乏しいと僕は思うのだが。経済、生産などという枠で物事を捕らえたときに、そのシステムの違いで遅れをとる方を「途上」と呼んでいるだけであって、そこの国民にとっては「普通」の事なのである。風呂やシャワーが無く、食事も1日1〜2回。着替えはあっても2着程度、テレビやラジオ等の情報伝達機器も無い。そのような生活環境は日本ではちょっと考えられない事かも知れないが、ネパールではごく当たり前のことである。それを「貧しいから」「かわいそうだから」「汚いから」といった感覚のものさしで捕らえることは果たして良いことなのだろうか?

日本からネパールに行き来をしているNGO団体は大小併せると200を超すとも言われている。しかし、このような「哀れみ・慈しみ」での援助活動を展開しているNGO団体も少なくない。大切なのは問題を互いに捕らえ、その国のスピードで共に進んでいくことだと僕は思う。ネパールでは雨期に畑を流されてしまう家庭も少なくない。そういった地域ではに毎月少額の積立を世帯単位で行い、災害のあった世帯へそのお金を貸し出すという相互扶助の活動なども広まりを見せてきた。しかし、そう言ったときのためにと、各国のNGO団体が数万円規模での援助活動をしてしまうと、その精神が崩れてしまうことや援助への期待が膨らむ事へとつながってしまいかねない。折角生み出した問題解決の方法が「カネ」の力だけでその効力を失ってしまう。お節介とはこういったことなのだろうか。

もし誰かに「豊かさのものさしとは?」と聞かれたら、僕は「人」と答える。「人」は、その人その時々で尺度を変え、様々なモノの見方をしてくれる。しかも、物質的でも精神的でもある人の豊かさは自分自身でなければ作り出して行くことはできない。豊かさのものさしは、時にはその尺度を変え、柔軟に物事を捕らえられるようなものでなくてはいけないと思う。物質的な事に豊かさを求めがちな僕達にとって、今、改めて「豊かさ」を考えることは難しい事なのかも知れない。ましてやその尺度などは…。ネパールの子ども達はアフリカの難民とは違い、直接生死にかかわるような飢餓状態ではなが、「生きる」事が豊かな事なのだろうと思える。夢を追い、実現するために生き、生きるために知恵をつけ、知恵を絞り夢を叶えようとする。その時時を「豊か」に感じているのだと思う。

3度に渡るネパールへの渡航は、僕にとっては「豊かさ」を感じるためのもの。これから先、同じ「地球市民」としての豊かさの追求を、このネパールの地で考えてみたいと思った。この日の想い、この日の緊張感、この日の夢、ネパールの寒さ、人の温もり、この感動をもう一度味わいたい。またネパールの地を踏みしめる日を想い、旅を共にした僕の腕時計は3時間15分の時差を戻さずに、机の引き出しへとしまいこんだ。



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