2000.11.6号 06:00配信


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第38次南極地域観測隊 ドームふじ観測拠点越冬隊
「食と生活の記録」より/by 西村淳


「正月が来た」

「そして1998年」目を覚ますと新年になっていた。
肉体労働が続く毎日であったが、今日だけは休日日課になった。それでもみんな朝から何かごそごそ作業をやっていた。去年の今頃はと考えると、毎日毎日雪上車に揺られ、まだ見ぬドーム基地の事を不安半分でぼんやり考え、変わらぬ白一色の世界を眺め続けていた。朝の9時から真夜中まで走行し、その日の食卓当番の手を借りて夕食の準備を毎日していたのだが、へたをすると夕食が午前02:00になるなんてことも少なからずあった。

精神論を述べても何にもならないが、隊員全員緊張して毎日を送っていたのだと思う。そんなときには不思議にけがをすることなく、病気にもならなかった。これから一年間ドーム基地で越冬しなければと言うプレッシャーが大きかったせいか肉体的には眠る時間もあまりなくすさまじくつらい毎日であったが、それも今となっては夢の彼方へ去ってしまった。

前回越冬したときは、無我夢中で一年を過ごし、なんだかあっという間に終わってしまったが、今回はその時よりもいくらかは余裕を持って望めたので、一年間は一年間の長さとして感じることが出来た。それにしても初めての越冬隊参加でここに来た、福田・川村・平沢・西平・佐藤各氏は想像を絶する一年間であったろう。

平沢氏は科学者の立場で、十分楽しみそして研究の成果を上げられたことと思う。「まずはやってみよう」をモットーに時にはどじったが、目的に向かって突き進む姿は教えられる事も多かった。次回南極に来たときは、立派なリーダーとして観測隊を引っ張っていくことだろう。

医者として参加した福田ドクター・・・。
普段は「先生、先生」とナースや患者に尊厳をはらわれて暮らしているのだろうが、ここでは体力おばけのオヤジとして、いい味を出してくれた。年も近い事から茶飲み友達になったが、医術以外の事を覚えたいと思って参加したのは御立派である。越冬終了時の現在は「サードシェフ」としてその地位を揺るぎないものとしている。この人がいたから、私のストレスも半分で済んだと言い切れる。

西平隊員の「盆」と言うニックネームは私が名付け親である。弟の様にいつも一緒にいた。出港前に彼のおばさんから「亮は体力がないのでよろしくお願いします。」と頼まれたが体力の限界まで頑張ったのはこの男と言っても良いくらい一生懸命頑張ったと思う。ただ欠点は広島カープの大ファンと言うことで、巨人命!の私の大ひんしゅくとののしりを常にかっていた。でも彼にしてみたら私の欠点は巨人フアンと言うことになるのだろう?

新妻「ふみこちゃん」を日本に残し、南極にやってきた川村氏は、おそらく一番帰りたがっている一人ではないかと思う。その軽妙な関西弁とウイットに富んだユーモアは、隊員間に爆発一歩手前の衝突が起きそうになったとき、何度ショックアブソーバーになってくれた事か・・・・・。その反面ほんとの自分の感情を包み隠して、隊員達のために立ち回ってくれたような気がしないでもない。帰国したら奥様のご機嫌を伺う日々が続くのだから、南極で一回くらい爆発してもよかったのに・・・。

機械担当「佐藤氏」。 おそらく私の事を煙たいおやじと思っていることだろう。怒って、怒って、怒りまくった一年間だった。彼のエネルギーはドーム旅行で使い果たしてしまったような気がする。せっかく来た南極なのに、はなはだ残念だった。 正直この人、途中で死ぬと思った。なんとなく毎日遠くの方角を見ているようであぶなくてしかたなかった。こんな時はエネルギー注入に限ると思い、ちょっといやだったけれど、憎まれ役をやることにした。喜びと相反する強烈なエネルギー源は怒りである。「てめえコノヤロ!! 働かないのなら飯喰うな!!」こんな暴言にも黙って耐えていた。 泣きながらかかってくるようならもう少し楽になったのになあ。でも私の知性のかけらもない悪口雑言をよく我慢してくれました・・・ごめん!てな事をベッドの中でぐだぐだ考えている内に、早くも昼近くになってしまった。いけない雑煮を作らないと!!

とこんな感じで私の1998年はスタートした。

元日の食卓


元日のオレンジ風呂


注意:写真はすべて国立極地研究所に属します。
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