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2001.2.22号 07:00配信
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白い砂漠〜北海道サロマ湖・自転車横断記
| ▼元原稿 | ▼編集(直した個所に色づけしてあります) |
| 『白い砂漠〜北海道サロマ湖・自転車横断記』 アドベンチャーサイクリスト 古谷彰史 【プロローグ・自分の輝く場所、それが白い砂漠】 人は誰でも自分の輝く場所を探し求めている。 自転車で自分の人生を切り開いてきたボクが最後に見つけたステージ。 それが、「白い砂漠」。これは、過酷な自然が生んだ舞台に、広島の1人のサイクリストが、自分の限界を駆けて挑んだ魂の記録である。 【リベンジしたい、夢を叶わせたまえ】 1999年1月2日、ロシアーサハリン間の氷結した間宮海峡に、ボクは、スノーモービル隊などロシア人スタッフと総勢12人でアタック。4年間夢にまで見た氷の白い砂漠の自転車横断28キロに挑んだのだった。 マイナス30度、凍傷、ブリザード・・・状況は過酷を極め、18キロ地点、全行程の3分の2の地点でホワイトアウト、ここで無念の撤退を決意した。 あれから2年後の2001年、その無念の想いを晴らすべく新しい舞台の場に、ボクは、ほぼ同じ距離の氷結した日本最大の氷結湖・北海道のサロマ湖を選んだ。 まだ誰も走破したことのない氷結したサロマ湖。 白い砂漠の走破の夢を追いつづけて6年。サロマ湖が作り出す過酷なステージでリベンジを果たし、ボクが輝くことができるだろうか。 【なんとしてもサロマ湖を走りたい】 北海道北東部のオホーツク海岸に位置するサロマ湖。琵琶湖、霞ヶ浦に次ぐ日本第3位の大きな湖。結氷する湖では日本最大だ。文房具のクリップを横にしたような形で、東西30キロ。周囲90キロ。サロマとは、アイヌ語でサロマベツ、葦の茂る場所を意味する。 冬は例年1月から結氷し、氷結した湖は、白い砂漠となるが、ボクは東西方向の横断に、21世紀最初の年に、間宮海峡と同じくマウンテンバイクに前後輪、スパイクタイヤをつけての挑戦を決意した。 【ただ果たして横断できるのか】 今年に入り、氷結したサロマ湖横断に挑むことにしたものの、果たしてできるのかと 内心思った。今年は、特に寒さが厳しく、気象条件が安定しないためだ。 そして、サロマ湖の氷は割れることがあると聞き、1人で挑戦するのは、誰が考えても無謀で危険すぎると思った。この挑戦を登山に例えるなら、厳冬期のエベレスト登頂に挑むようなものだ。 また過去の挑戦記録を記した自転車雑誌によると、2年位前の1月末に、マウンテンバイクで自転車横断に挑んだ男性がいた。湖の氷の厚さ10センチと氷結具合が完全でなく、挑戦してまもなく、地元住民の通報を受けた警察官に、危険だと制止されて走りかけて、断念している。どう考えても、地元の人々の理解と協力が上、自然が味方してくれないと走ることすら叶わない。調べるにつれ、達成まで数年がかりでやらないといけない大変な冒険だと思った。 【夢の実現は、インターネットが突破口】 去年からボク自身の間宮海峡などの自転車冒険の旅行記を満載したHPを立ち上げた。年明けから、サロマ湖って果たして走れるのかなと、サロマ湖の情報をHPで探した。ボクの友達の新聞記者が、大学生の時、氷結したサロマ湖の上で、クロスカントリースキーを楽しんだ話が、今回の旅への最初のきっかけとなった。そうしたときに、佐呂間町の公式HPを見つけた。このHPの中の掲示板へのボクの‘サロマ湖自転車横断はボクの夢です’という書き込みが、リンクしてある「ほぼ週間さろま新聞」というメールマガジンの女性編集長の興味を惹いた。ようするに、女性編集長で佐呂間町在住の尾崎仁美さんは、「この冒険は面白い。さろま新聞の特ダネになる。」と判断。ボクの冒険を応援するかわりに、冒険の全過程を、さろま新聞に独占提供するということで、ボクにも異論はなかった。 尾崎さんも、ボクのHPで、間宮海峡走行の実績を理解し、本気を確認してくれた。 冒険前にボクは、地元のサポートという大きな味方を手に入れた。 冒険の費用は、間宮海峡の時は、4年間の準備や、本番で計300万円ぐらいと 大変な出費だったが、今回は、間宮海峡の装備も使い回すので15万くらいで済んだ。 【ベースキャンプも合わせて入手】 決行日は、仕事の都合や、サロマの氷結状況などから2月第1週と決めた。 佐呂間町の公式HPの掲示板を通じての尾崎仁美さんや、地元の漁師さん、一般町民の方々 のサロマ湖の実際の氷結状況や、アドバイス、励ましが続々と寄せられた。 ボクも、ペンネーム、「広島の自転車野郎」として、自転車横断の際に気をつけることなど質問を毎日のように書いた。それに対して、地元の人たちが、実に親切に答えてくれる。 そのうち、「広島の自転車野郎を応援し夢のサロマ湖をなんとか渡らせよう」という ボランティアグループ、通称、‘渡らせ隊’が、地元町民で結成された。最後には、 「横断に挑戦するなら、ウチへお泊り」と、尾崎仁美さんが、ベースキャンプの提供まで申し入れてくれたのには感動した。報道記者として、忙しい身であり、失敗によるケガ などで不安もあった。その言葉で、最終的に、佐呂間町行きを決意した。 それは、決行10日前の1月21日のことだ。 【決行前日・佐呂間町の人々との出会い】 2001年1月31日。ボクは、この日から5日間の休暇を取り、夢舞台・北海道 佐呂間町に、飛行機で乗り込んだ。広島を朝11時に出発。千歳空港で乗り換えて、女満別空港へ。人口6800人の佐呂間町は、網走刑務所で有名な網走市の40キロ西にある。 半農半漁の町で、オホーツク海岸のサロマ湖南岸を占めている。 夕方4時半に到着した空港には、渡らせ隊のリーダーの尾崎仁美さん(46歳)と、大学受験中の長女、千恵さんが出迎えてくれた。尾崎さん運転のミニバンに、間宮海峡走行で使った愛車スパシーバ号(ロシア語名、日本語でありがとうの意味)や、間宮海峡走行に使った厳冬期登山用耐寒装備一式を積み込ませてもらう。一路、サロマ湖を目指す。サロマ湖の自転車横断は、2月1日。あすと決めており、下見をしたかったからだ。尾崎さんは、大阪教育大学卒の才媛で、幼稚園の保母さんをしていたという。千恵さんを筆頭に、中学生の次女と、小学生2人の男の子を育てる専業主婦をしながら、町の広報誌の仕事や、教育委員として活躍するなど頭が良く多彩な人だ。 尾崎さんが、連れて行ってくれたのが、翌日ボクの横断をスノーモービルでサポートする 佐呂間町の男5人衆の1人、谷川哲也さんの家だった。 谷川さんの家は、サロマ湖畔の浜佐呂間町にあり、漁師さんとして、海苔の養殖をし、販売もしている。岡山県出身で、父親が瀬戸内海で海苔養殖をしていたが、海の汚染で、見切りをつけて、中学生だった哲也さんとともに、北限の海苔養殖の舞台に、サロマ湖を選んだ。その苦労と先見性がようやく実ろうとしている。 このたびの有明海の海苔被害で、谷川さんの作ったサロマ湖の海苔に、インターネットでも問い合わせが相次いでいた。過酷な環境ゆえに、きれいな海が残っているからだ。 その谷川さんは、ボクのために、4日前にサロマ湖の下見と、コース作りをしてくれたのだが、疲労で倒れたと聞いていたので、心配だった。 温厚な谷川さんに会って、「大丈夫ですか」と尋ねると、切れ痔で大変だということだった。早速、暗くなりかけていた中、谷川さんのスノーモービルの後ろに乗せてもらい、1キロ先のサロマ湖へ向かう。頬を切るような冷たさ。少し行くと、真っ白なサロマ湖が現われる。なんだか、広いスキー場を思わせるような大氷原の景色だ。 谷川さんが、ここに寄ったのは、氷結したサロマ湖に、雪が積もったため、走りにくくなった湖面の簡易除雪機を用意するためだった。ボクのスパイクタイヤは、完全に凍結した間宮海峡では、時速30キロも可能。しかし、積雪には滅法弱い。最大10センチまでだ。それを超えると走れない。いずれにしても、おそらくボクのための下見や準備で、腰を冷やして、体調を崩したのだろう。気温は氷点下10度くらいで凍てつく。 湖面の積雪は、7センチくらいで問題ない。ただ、岩盤に当たる氷の凍結具合が少しやわらかいように思われ、少し不安を感じた。だが、谷川さんのことを考えると、ぜひとも 成功させたいと心に誓った。 その夜、浜佐呂間町から10キロ内陸にある佐呂間町の中心部にある、尾崎さんの家で、 ボクの成功を願う地元の渡らせ隊主催の打ち合わせ兼成功祈願会が、町民20人余りが 参加して開かれた。尾崎さんの夫で46歳の実さんは、整骨院を営んでおり、自宅兼診療所のこの家は大きい。毎晩パーティーが開けるぐらいのスペースがある。 そこでの前祝いで、佐呂間町役場の社会教育課長の干場さん、企画係長の中村さん、海坊主こと富武士の漁師、室井さんなどと出会った。この夜、きてくれた3人は、あす、谷川さんとともに、モービルに乗って、ボクの横断をサポートしてくれる主要メンバーだ。 役場の中村さんは、ボクは思ったより太っていたため、「この人、本当に渡れるのか」と心配だったそうだ。ボクのこのときの体重は、76キロ。「極地探検家は、寒さ予防で、みんな体を太らせている」と言い訳したが、仕事が忙しすぎて、ややトレーニング不足だったことは確かだ。しかし、問題は、根性と気力と、情熱だ。そして、ここには、力強い仲間がいる。酒宴が盛り上がった頃、仲間の協力の大事さをよりアピールするために、ボクは、(作戦その1)、持参したあるものをとりだした。それは、広島の誇る日本三景の1つ、宮島の厳島神社で買ったミニ3本の矢だ。そして、ボクは、戦国武将・毛利元就の故事、三本の矢の教えを披露。「1本の矢にあたる古谷1人では、たやすく折れるし、目標のサロマ湖は、到底、渡れない。しかし、2本、3本と、町民のサポートである矢が加われば、矢は丈夫になって、必ず夢は実現できる」と説いた。はるばる遠い広島からきた意味を感じてもらい、「協力がなくては、冒険の成功はありえない」と渡らせ隊のハートに訴えた。 さらに、(作戦その2)、広島の銘酒・賀茂鶴、(その3)のもみじ饅頭のおみやげを振舞った。地元町民に好かれ、広島の自転車野郎を少しでも助けてあげようという気持ちにさせたかった。ボクのために、サポートメンバー5人は、あすは、仕事を休んで手伝う。しかし、できれば、あす1日で成功させて欲しいといわれた。なんとか、天気も曇りでまあまあだということだ。役場の中村さんは、なんと、手作りのスタートとゴールの横断幕を作ってくれた。これはうれしくてみんなと写真を撮った。その夜は、サロマ湖でとれた魚介類の手巻き寿司などもおいしくて、つい飲みすぎ、ボクが寝たのは、結局、12時過ぎていた 佐呂間町の夜は、しんしんと寒さが応えた。 【自転車横断に挑戦だ】 2月1日、いよいよ横断の日がやってきた。ボクは、毎日、トレーニングのため、朝6時に起きて、30分くらい近くの山の登り降りをする。 この日も朝6時に起きたが、きのうの酒が残っていた。外に出ると、猛烈に痛い。露出した肌のいたるところが、やけどしたような感じだ。ろくろく外も歩けず、余りの寒さに、 自分でも本当に渡れるのかとこのときは思った。 朝7時、迎えのトレーラーと車がきた。ボクの自転車は、トレーラーの荷台に、そして、 ボクは、役場の干場さんと中村さんの車に乗って、横断ゴール予定地点の浜佐呂間漁港に向かった。このとき、車に、温度計がついていて、マイナス12度位だった。 ボクは思わず、サロマ湖も、こんな気温ですかと聞いた。 すると、佐呂間町は、盆地で朝の冷え込みが厳しい。サロマ湖は、5度くらい高いといってくれた。ボクはこれ以上寒かったら、足の筋肉が硬直して思うように、ペダリングできないと心配していたから、ホッとした。 【苦労する佐呂間の男たちの姿聞き発墳】 浜佐呂間で、2人は、漁師の谷川さん、室井さんと合流し、除雪や、コースを視察しながら、ゴールからおよそ30キロ西のスタート地点へモービルで向かってくれた。 ボクは、普段、除雪機の運転をしている石川さんのトレーラーに同乗し、テイネイに向かった。きょうは、息子さんも会社を休んで、スノーモービルでボクをサポートしてくれる。親子で協力してくれる石川さんが、車内で、驚く話をした。 「古谷さん、最近、佐呂間町では、働きざかりの父親の自殺が相次ぎ、問題となっている。 ここ数年で7、8人も亡くなった。サポートメンバーの中にも同じような悲しい目にあった男がいるし、別の協力者には、父親が早くなくなったのにもかかわらず、ぐれずに、立派に育った若者がいます」としんみりと話かけてくれた。 ボクは、その理由を問うことにためらったけれど、たとえば、冬場に、氷点下10度から20度からの氷下漁など、想像を絶する寒さで、魚を引き上げなければ、一家が飯を食えない。サラリーマンのように、空調設備の効いた職場ではない中、しかも、不況が加われば、真面目で責任感の強い中年男性が、長年のストレスや、社会構造の急変で、そうしたことに陥ったのではないかと推測した。ただ、その話を聞いたボクの心は、発墳した。 苦労が報われることを、ボクは今回の冒険で実証して見せるぞと。 【2年ぶりの白い砂漠、第一歩が失敗?!】 たどりついたのは、テイネイ漁港だった。漁港から憧れの白い砂漠が見えた。間宮海峡に見た目はそっくりだ。ワクワクした。氷の厚さは、20から30センチ。この日の積雪は7センチ程度。季節風は西。やれるぞ。曇り空だが雪も降らず、それほど寒くない。いよいよだ。みんなと一緒に走り切ってやるぞ。湖の中央を横切り、ここから30キロ先の浜佐呂間漁港を目指すのだ。燃え上がる気持ちで、スタートの横断幕をくぐってテイネイ漁港を朝9時に出発。しかし、なんと、あろうことか、第1歩のペダリングが空振り。こげない。間宮海峡の時と違って手ごたえ、いや、足ごたえ、いわゆるグリップが効かない。 これでは前進できない。この日のサロマ湖は、完全に氷が凍結しているのではなくてシャーベットの上に、7から10センチの雪が積もった状態だ。この日は、凍結状態の悪い西から東方向の凍結状態の良い場所へ横断していこうとしていた。除雪したコースに沿って 走れば、3時間後の昼前にはつける。みんなもそう思っていた。 【最初の6キロで断念か】 だが、違った。想像以上のぬかるみだった。思わぬ展開に、少しあせったが、乗れる部分もあり、もがくように、前進していった。 重さ10キロの荷物を背負い、上6枚、下5枚と完全武装、古館伊知朗調にいえば、「十二単の太った自転車野郎がなんと、無謀にも、凍った湖を自転車で渡ろうとしています」と絶叫アナウンスになるだろう。 とにかく進まないけど、ペダルは思いきり回すので、全身汗びっしょり、熱くて熱くてたまらなかった。1時間に6キロしか進めない。このままでは5時間はゆうにかかる。 見守るサポート隊も寒いはずだ。正直言って、横断はできないのか、間宮海峡の悪夢がよみがえるかと思った。だが、振り払い、例え少しでも前進することにした。 来た道を振り返っても、テイネイを含めた陸地が見え、行く先は真っ白な大地が延々と続く。とにかく、寒さの中では、体が思うように動かない。押すにしても、地面がべちゃべちゃで、歩くのも困難な始末。カタツムリ状態で、夜になってしまいそうだった。こてっちゃんこと谷川さんのモービルの除雪したあとは、残念ながら湖面がやわらかいまま。結局、未明に、地元漁師が走ったあとは、2本のソリのあとが、凍結して堅く、走りやすいことがわかってきた。ボクはその道を探しながら、できるだけ、湖の中央に沿って走った。ようやく10キロ地点。標識を立ててくれていた。だが、ボクはもうヘトヘトだった。弱音を吐きかけた。だが、石川さんがけさ話した佐呂間町の男たちの苦労を思い出し、「苦労が報われないまま終わっていいのか。このままじゃ情けないぞ」と思い直した。 乗れる部分はあるけれど、ペダルをこぐ力が完全に地面に伝わっていない。 本当だったら、その3倍は進んでいるに違いない。推進力の大幅なロスだ。とにかく水をガブガブと飲む。汗も噴き出る。昼には、みんなゴールにつけると思っていた。 時間は刻々と過ぎるため、お腹が猛烈に減り、倒れそうだった。 このため、スノーモービル隊に、昼食を買ってきて貰った。 モービル隊は、コンビニのおにぎりを15個買ってきた。 6個を一気に平らげた。待っているサポートメンバー人たちも、さぞかし、寒いだろう。 ボクが動かない間もじっとしているからだ。 【なんとしても岸に辿り着きたい】 15キロ地点。半分だ。このころになると、余りの寒さのため、筋肉は硬直し、 脚力も限界に近づいてきた。周囲の景色で自分たちの位置も判断できるが、 当初のゴール地点は遠いような気がした。 また、風が向かい風になった上、強くなってきた。 みんなも、仕事があり、その点も考えた。 前方の海坊主こと漁師の室井さんは、モービルに前のめりにもたれるように背中を丸めていた。とても寒そうに見えた。おそらく、魚が取れる未明か早朝にも漁の仕事をしたのじゃないかと思われた。自分自身の余力を残した限界点と、これ以上、サポート隊に苦労はかけられないという判断から正午前に、みんなには、ルートの変更を申し出た。 なんとしても、岸にたどりついて、そこをゴール地点にしたいと。 結局、漁港のような場所じゃないと、陸に上がれないので、ここから最寄りの8キロ先にある浪速の北勝水産の漁港を目指した。といっても、ボクにとっては、遥か彼方にある漁港だ。ここまで、大体半分以上自転車に乗り、半分は押してという感じだ。 ただ、乗るといっても、人間が走るペースといったらいいだろうか、間宮海峡のように、 モービルと同じスピードは出なかった。最初のゴール地点まで行ったら、夕方から夜になり、体の芯まで冷え切ったボクも含めたみんなの疲労は計り知れない。 【とうとう白い砂漠を横断した】 遅い歩みだが、目標となる漁港には、目に入る白い大きな建築物があり、その建物が彼方にポツンと見えた。そこが、ボクのゴールだ。リタイヤしたら、その時点でボクの負けだ。たどりついたら、勝ちだ。サポート隊のメンバーと、2日に分けて走破してもいいんじゃないのという声もあった。サロマ湖周辺の気象条件に左右されるからだ。 しかし、みんなきょう1日仕事を休んでおり、無理はいえない。 きょう1日がすべてだと思った。 20キロ地点。左足がつった。自転車に乗って足がつったのは、自転車歴30年のボクもはじめてのことだ。コース変更して正解だと思った。足には、そうとうに無理をさせた。自転車も雪まじりだ。氷点下10度近くで、良く動くなあと思った。 駆動系のチェーンや、後ろの6段ギヤのすき間にも容赦なく雪が詰まり、動きが鈍くなっている。ゴールまであと1キロ。サポート隊の5人衆の背中を見ていると、涙があふれてきた。男同士だから愚痴はいわないけれど、5時間以上も、ジット湖面にしたら凍えて、 大変だったはずだ。サポート隊にとっても途中断念は、くやしいはずだ。 ボクは佐呂間の5人のサムライと、2年前の間宮海峡自転車横断をサポートしてくれたロシア人の姿を重ねあわせていた。ロシア人は、猛吹雪による断念だったのに、自分のことのように、泣いてくやしがってくれた。 苦節6年。とにかく、1つのことをやり遂げようとしている。 そんな時に、送り出してくれた家族、会社の人たち、地元の人たちの顔が自然に思い浮かんでくる。しあわせを感じた。やがて、5・6人の姿が見え、近づいてきた。 ボクだけの白い砂漠のゴールだ。2月1日、午後2時20分。 佐呂間町渡らせ隊のメンバーが心をこめて作ってくれたゴールの横断幕の下をくぐり抜けた。前人未踏、1人の自転車野郎が、日本最大の雪と氷の湖を、証人とともに渡った歴史的瞬間だ。自転車で白い砂漠を渡りたい。間宮海峡の冒険から6年の月日をかけ、ゼロから出発した手作りの冒険。植村直己さんや、間宮林蔵の霊が見守ってくれていたのに違いない。尾崎仁美さんが、暖かい中華饅頭と、コーヒーを持ってきてくれていた。 冷え切った体のボクを含めた6人は、尾崎さんの真心がうれしかった。 サロマ湖は、その時を境に風が猛烈に強くなり、夕方から猛吹雪となった。 結局、翌日、翌々日と、湖面は荒れた。 【感謝、そして感謝】 2月1日の夜、尾崎亭で、横断達成祝賀会が開かれた。 きさくな堀町長も参加して、とてもにぎやかなものとなった。 ボクは、こんなに応援と期待されて、横断を途中であきらめないで本当に良かったと思った。その夜遅く、みんなが帰り、1人になったとき、中に入れていた自転車スパシーバ号を、薄明かりで見つめた時、「あんな寒さの中、相棒のおまえも、故障もせずに、よくやったな」と、心で声をかけ、撫でてしまった。こんな気持ち、自転車乗りにしか分かるまい。 【白い砂漠よ】 佐呂間の冬は厳しい。間宮海峡で暮らす人々と同じだ。 厳しい寒さで撮影した間宮海峡の写真は、その写真を見せた人を驚かせた。 厳しい自然は、すばらしい写真を生むとボクは思った。 冒険の翌日も、佐呂間町のこどもたちが、吹雪の中、歯をくいしばって登校していた。 ボクが、道をたずねると、あとからついてきてまで正確に教えてくれたご婦人がいた。 バスの中では、運転手さんと、おじいさんが、まるで自分の家族のように世間話をしていた。佐呂間の人々のハートは暖かいのだろう、ボクは一度きただけで、佐呂間町のファンになった。北の大地に根ざす人の人間性に今の社会が忘れかけている一番大事なものがあった。 【エピローグ・いつかまた白い砂漠へ】 サロマ湖。念願の白い砂漠の横断達成の地として、ボクの心に刻まれた。 自転車冒険は、生きる指針だ。白い砂漠は、ボクの心をとらえてはなさない。 自然が作り出した芸術だ。光り輝くその舞台で、ボクは、またいつか、輝きたい。 6年間の苦難を分け合った愛車スパシーバ号。 白い砂漠の生まれない季節には、ともに、日本一周目指して、日本各地を駆け回っている。 ボクとスパシーバー号の白い砂漠への見果てぬ夢は続くだろう。 行く先々で知り合った人々への感謝の気持ち、「ありがとう」の言葉を残しながら・・・ 【追記】 ボクの白い砂漠への挑戦、サロマ湖自転車横断記や、間宮海峡走行、自転車日本一周の模様は、写真つきで、ボクのHPで、無料で楽しむことができます。 『情熱は世界を駆ける〜自転車野郎の冒険記〜』 http://www.hicat.ne.jp/home/akifumi/ です。ヤフーや、インフォシークなどの検索エンジンにも登録されています。 映画スターウオ−ズのように第5部まである膨大な分量なので少しずつお楽しみください。 |
『白い砂漠〜北海道サロマ湖・自転車横断記』 アドベンチャーサイクリスト 古谷彰史 【プロローグ・自分の輝く場所、それが白い砂漠】 人は誰でも自分の輝く場所を探し求めている。 自転車で自分の人生を切り開いてきたボクが最後に見つけたステージ。それが、「白い砂漠」。これは、過酷な自然が生んだ舞台に、広島の1人のサイクリストが、自分の限界を駆けて挑んだ魂の記録である。 【リベンジしたい、夢を叶わせたまえ】 1999年1月2日、ロシア−サハリン間の氷結した間宮海峡に、ボクは、スノーモービル隊などロシア人スタッフと総勢12人でアタック。4年間夢にまで見た氷の白い砂漠の自転車横断28キロに挑んだのだった。 マイナス30度、凍傷、ブリザード・・・状況は過酷を極め、18キロ地点、全行程の3分の2の地点でホワイトアウト、ここで無念の撤退を決意した。 あれから2年後の2001年、その無念の想いを晴らすべく新しい舞台の場に、ボクは、ほぼ同じ距離の氷結した日本最大の氷結湖・北海道のサロマ湖を選んだ。 まだ誰も走破したことのない氷結したサロマ湖。 白い砂漠の走破の夢を追いつづけて6年。サロマ湖が作り出す過酷なステージでリベンジを果たし、ボクが輝くことができるだろうか。 【なんとしてもサロマ湖を走りたい】 北海道北東部のオホーツク海岸に位置するサロマ湖。琵琶湖、霞ヶ浦に次ぐ日本第3位の大きな湖。結氷する湖では日本最大だ。文房具のクリップを横にしたような形で、東西30キロ。周囲90キロ。サロマとは、アイヌ語でサロマベツ、葦の茂る場所を意味する。 冬は例年1月から結氷し、氷結した湖は、白い砂漠となるが、ボクは東西方向の横断に、21世紀最初の年に、間宮海峡と同じくマウンテンバイクに前後輪、スパイクタイヤをつけての挑戦を決意した。 【ただ果たして横断できるのか】 今年に入り、氷結したサロマ湖横断に挑むことにしたものの、果たしてできるのかと内心思った。今年は、特に寒さが厳しく、気象条件が安定しないためだ。 そして、サロマ湖の氷は割れることがあると聞き、1人で挑戦するのは、誰が考えても無謀で危険すぎると思った。この挑戦を登山に例えるなら、厳冬期のエベレスト登頂に挑むようなものだ。 また過去の挑戦記録を記した自転車雑誌によると、2年位前の1月末に、マウンテンバイクで自転車横断に挑んだ男性がいた。湖の氷の厚さ10センチと氷結具合が完全でなく、挑戦してまもなく、地元住民の通報を受けた警察官に、危険だと制止されて走りかけて、断念している。どう考えても、地元の人々の理解と協力が上、自然が味方してくれないと走ることすら叶わない。調べるにつれ、達成まで数年がかりでやらないといけない大変な冒険だと思った。 【夢の実現は、インターネットが突破口】 去年からボク自身の間宮海峡などの自転車冒険の旅行記を満載したHPを立ち上げた。年明けから、サロマ湖って果たして走れるのかなと、サロマ湖の情報をHPで探した。ボクの友達の新聞記者が、大学生の時、氷結したサロマ湖の上で、クロスカントリースキーを楽しんだ話が、今回の旅への最初のきっかけとなった。そうしたときに、佐呂間町の公式HPを見つけた。このHPからリンクしているwebnews「佐呂間町のなんでも掲示板」への‘サロマ湖自転車横断はボクの夢です’というボクの書き込みが、「ほぼ週刊さろま」というメールマガジンの編集長さくらうめこさんの興味を惹いた。 うめこさんも、ボクのHPで、間宮海峡走行の実績を理解し、本気を確認してくれた。 冒険前にボクは、地元のサポートという大きな味方を手に入れた。 冒険の費用は、間宮海峡の時は、4年間の準備や、本番で計300万円ぐらいと 大変な出費だったが、今回は、間宮海峡の装備も使い回すので15万くらいで済んだ。 【ベースキャンプも合わせて入手】 決行日は、仕事の都合や、サロマの氷結状況などから2月第1週と決めた。 webnewsの掲示板を通じてうめこさんや、地元の漁師さん、町民の方々からサロマ湖の氷結状況や、アドバイス、励ましが続々と寄せられた。ボクも、ハンドルネーム「広島の自転車野郎」として、自転車横断の際に気をつけることなど質問を毎日のように書いた。それに対して地元の人たちが、実に親切に答えてくれる。 そのうち、「広島の自転車野郎を応援し夢のサロマ湖をなんとか渡らせよう」というボランティアグループ、通称‘渡らせ隊’が地元町民で結成された。「挑戦するなら、ウチへお泊り」と、うめこさんがベースキャンプの提供まで申し入れてくれたのには感動した。報道記者として忙しい身であり、失敗によるケガなどで不安もあった。その言葉で、最終的に佐呂間町行きを決意した。 それは、決行10日前の1月21日のことだ。 【決行前日・佐呂間町の人々との出会い】 2001年1月31日。ボクは、この日から5日間の休暇を取り、夢舞台・北海道佐呂間町に飛行機で乗り込んだ。広島を朝11時に出発。千歳空港で乗り換えて、女満別空港へ。人口6800人の佐呂間町は、網走刑務所で有名な網走市の40キロ西にある。半農半漁の町で、オホーツク海岸のサロマ湖南岸を占めている。 夕方4時半に到着した空港には、ほぼ週刊さろま編集長のさくらうめこさん(46歳)と、大学受験中の長女、千恵さんが出迎えてくれた。うめこさん運転のミニバンに間宮海峡走行で使った愛車スパシーバ号(ロシア語名、日本語で‘ありがとう’の意味)や、間宮海峡走行に使った厳冬期登山用耐寒装備一式を積み込ませてもらう。一路、サロマ湖を目指す。サロマ湖の自転車横断は、2月1日。あすと決めており、下見をしたかったからだ。うめこさんは、大阪教育大学卒の才媛で、幼稚園の保母さんをしていたという。千恵さんを筆頭に、中学生の次女と長男、小学生の男の子を育てる専業主婦をしながら、町の教育委員などの仕事をし活躍するなど頭が良く多彩な人だ。 うめこさんが、連れて行ってくれたのが、翌日ボクの横断をスノーモービルでサポートしていただくことになっている佐呂間町の男5人衆の1人、Tさんの家だった。 Tさんの家は、サロマ湖畔の佐呂間町浜サロマにあり、漁師さんとして海苔の養殖をし販売もしている。岡山県出身で、父親が瀬戸内海で海苔養殖をしていたが、海の汚染で見切りをつけて、中学生だったTさんとともに、北限の海苔養殖の舞台に、サロマ湖を選んだ。その苦労と先見性がようやく実ろうとしている。 このたびの有明海の海苔被害で、Tさんの作ったサロマ湖の海苔に、インターネットでも問い合わせが相次いでいた。過酷な環境ゆえに、きれいな海が残っているからだ。 そのTさんはボクのために、4日前にサロマ湖の下見とコース作りをしてくれたのだが、疲労で倒れたと聞いていたので心配だった。 ・・・・・・削除・・・・・・・・ 早速、暗くなりかけていた中、Tさんのスノーモービルの後ろに乗せてもらい、1キロ先のサロマ湖へ向かう。頬を切るような冷たさ。少し行くと、真っ白なサロマ湖が現われる。なんだか、広いスキー場を思わせるような大氷原の景色だ。 Tさんがここに寄ったのは、氷結したサロマ湖に雪が積もったため、走りにくくなった湖面の簡易除雪機を用意するためだった。ボクのスパイクタイヤは、完全に凍結した間宮海峡では時速30キロも可能。しかし、積雪には滅法弱い。最大10センチまでだ。それを超えると走れない。いずれにしても、おそらくボクのための下見や準備で、腰を冷やして、体調を崩したのだろう。気温は氷点下10度くらいで凍てつく。 湖面の積雪は7センチくらいで問題ない。ただ、岩盤に当たる氷の凍結具合が少しやわらかいように思われ少し不安を感じた。だが、Tさんのことを考えると、ぜひとも成功させたいと心に誓った。 その夜、浜サロマから約10キロ内陸、佐呂間町の中心部にある、うめこさんの家で、ボクの成功を願う打ち合わせ兼歓迎会が、地元の方々約20人余りが参加して開かれた。うめこさんの夫は、整骨院を営んでおり、自宅兼診療所のこの家は大きい。毎晩パーティーが開けるぐらいのスペースがある。 そこでの前祝いで、佐呂間町役場の社会教育課長のダブルHさん、企画係長のなおきさん、海坊主こと富武士の漁師、Mさんなどと出会った。この夜、きてくれた3人は、あす、Tさんとともに、モービルに乗って、ボクの横断をサポートしてくれる主要メンバーだ。 役場のなおきさんは、ボクが思ったより太っていたため「この人、本当に渡れるのか」と心配だったそうだ。ボクのこのときの体重は、76キロ。「極地探検家は、寒さ予防で、みんな体を太らせている」と言い訳したが、仕事が忙しすぎて、ややトレーニング不足だったことは確かだ。しかし、問題は、根性と気力と、情熱だ。そして、ここには、力強い仲間がいる。 酒宴が盛り上がった頃、仲間の協力の大事さをよりアピールするために、ボクは、持参したあるものをとりだした。それは、広島の誇る日本三景の1つ、宮島の厳島神社で買ったミニ3本の矢だ。そして、ボクは、戦国武将・毛利元就の故事、三本の矢の教えを披露。「1本の矢にあたる古谷1人では、たやすく折れるし、目標のサロマ湖は、到底、渡れない。しかし、2本、3本と、みなさんのサポートである矢が加われば、矢は丈夫になって、必ず夢は実現できる」と説いた。はるばる遠い広島からきた意味を感じてもらい、「協力がなくては、冒険の成功はありえない」と渡らせ隊のハートに訴えた。 ・・・・・・削除・・・・・・・・ サポートメンバー5人の方々は、あす、ボクのために仕事を休んで手伝っていただけるという。・・・・・・削除・・・・・・・・役場のなおきさんは、なんと、手作りのスタートとゴールの横断幕を作ってくれた。これはうれしくてみんなと写真を撮った。その夜は、サロマ湖でとれた魚介類の手巻き寿司などもおいしくて、つい飲みすぎ、ボクが寝たのは、結局、12時過ぎていた佐呂間町の夜は、しんしんと寒さが応えた。 【自転車横断に挑戦だ】 2月1日、いよいよ横断の日がやってきた。ボクは、毎日、トレーニングのため、朝6時に起きて、30分くらい近くの山の登り降りをする。この日も朝6時に起きたが、きのうの酒が残っていた。外に出ると、猛烈に痛い。露出した肌のいたるところが、やけどしたような感じだ。ろくろく外も歩けず、余りの寒さに、自分でも本当に渡れるのかとこのときは思った。 朝7時、迎えのトレーラーと車がきた。ボクの自転車は、トレーラーの荷台に、そして、ボクはダブルHさんとなおきさんの車に乗って、横断ゴール予定地点の浜サロマ漁港に向かった。このとき、車に温度計がついていて、マイナス12度位だった。ボクは思わず、サロマ湖も、こんな気温ですかと聞いた。すると、佐呂間町は、盆地で朝の冷え込みが厳しい。サロマ湖は、5度くらい高いといってくれた。ボクはこれ以上寒かったら、足の筋肉が硬直して思うように、ペダリングできないと心配していたから、ホッとした。 【苦労する佐呂間の男たちの姿聞き発墳】 浜サロマで漁師のTさん、Mさんと合流し、除雪や、コースを視察しながらゴールからおよそ30キロ西のスタート地点へモービルで向かってくれた。 ボクは、普段、除雪機の運転をしているIさんのトレーラーに同乗し、テイネイに向かった。きょうは、息子さんも会社を休んでスノーモービルでボクをサポートしてくれる。親子で協力してくれるIさんが、車内で、驚く話をした。 「古谷さん、最近、佐呂間町では、働きざかりの父親の不慮の死が相次ぎ問題となっている。」と、しんみりと話かけてくれた。ボクは、その理由を問うことにためらったけれど、たとえば、冬場に、氷点下10度から20度からの氷下漁など、想像を絶する寒さの中、魚を引き上げなければ一家が飯を食えない。サラリーマンのように、空調設備の効いた職場ではない中、しかも、不況が加われば、真面目で責任感の強い中年男性が長年のストレスや社会構造の急変で、そうしたことに陥ったのではないかと推測した。ただ、その話を聞いたボクの心は、発墳した。苦労が報われることを、ボクは今回の冒険で実証して見せるぞと。 【2年ぶりの白い砂漠、第一歩が失敗?!】 たどりついたのは、テイネイ漁港だった。漁港から憧れの白い砂漠が見えた。間宮海峡に見た目はそっくりだ。ワクワクした。氷の厚さは、20から30センチ。この日の積雪は7センチ程度。季節風は西。やれるぞ。曇り空だが雪も降らず、それほど寒くない。いよいよだ。みんなと一緒に走り切ってやるぞ。湖の中央を横切り、ここから30キロ先の浜サロマ漁港を目指すのだ。燃え上がる気持ちで、スタートの横断幕をくぐってテイネイ漁港を朝9時に出発。しかし、なんと、あろうことか、第1歩のペダリングが空振り。こげない。間宮海峡の時と違って手ごたえ、いや、足ごたえ、いわゆるグリップが効かない。 これでは前進できない。この日のサロマ湖は、完全に氷が凍結しているのではなくてシャーベットの上に、7から10センチの雪が積もった状態だ。この日は、凍結状態の悪い西から東方向の凍結状態の良い場所へ横断していこうとしていた。除雪したコースに沿って 走れば、3時間後の昼前にはつける。みんなもそう思っていた。 【最初の6キロで断念か】 だが、違った。想像以上のぬかるみだった。思わぬ展開に少しあせったが、乗れる部分もあり、もがくように前進していった。重さ10キロの荷物を背負い、上6枚、下5枚と完全武装、古館伊知朗調にいえば、「十二単の太った自転車野郎がなんと、無謀にも、凍った湖を自転車で渡ろうとしています」と絶叫アナウンスになるだろう。 とにかく進まないけど、ペダルは思いきり回すので、全身汗びっしょり、熱くて熱くてたまらなかった。1時間に6キロしか進めない。このままでは5時間はゆうにかかる。 見守るサポート隊も寒いはずだ。正直言って、横断はできないのか、間宮海峡の悪夢がよみがえるかと思った。だが、振り払い、例え少しでも前進することにした。 来た道を振り返っても、テイネイを含めた陸地が見え、行く先は真っ白な大地が延々と続く。とにかく、寒さの中では、体が思うように動かない。押すにしても、表面がべちゃべちゃで、歩くのも困難な始末。カタツムリ状態で、夜になってしまいそうだった。こてっちゃんことTさんのモービルの除雪したあとは、残念ながら湖面がやわらかいまま。結局、未明に、地元漁師が走ったあとは、2本のソリのあとが、凍結して堅く、走りやすいことがわかってきた。ボクはその道を探しながら、できるだけ、湖の中央に沿って走った。 ようやく10キロ地点。標識を立ててくれていた。だが、ボクはもうヘトヘトだった。弱音を吐きかけた。だが、Iさんがけさ話した佐呂間町の男たちの苦労を思い出し、「苦労が報われないまま終わっていいのか。このままじゃ情けないぞ」と思い直した。 乗れる部分はあるけれど、ペダルをこぐ力が完全に伝わっていない。 本当だったら、これの3倍は進んでいるに違いない。推進力の大幅なロスだ。とにかく水をガブガブと飲む。汗も噴き出る。昼には、みんなゴールにつけると思っていた。 時間は刻々と過ぎるため、お腹が猛烈に減り、倒れそうだった。 このため、スノーモービル隊に昼食を買ってきて貰った。 モービル隊は、コンビニのおにぎりを15個買ってきた。 6個を一気に平らげた。待っているサポートメンバー人たちも、さぞかし、寒いだろう。 ボクが動かない間もじっとしているからだ。 【なんとしても岸に辿り着きたい】 15キロ地点。半分だ。このころになると、余りの寒さのため筋肉は硬直し、脚力も限界に近づいてきた。周囲の景色で自分たちの位置も判断できるが、当初のゴール地点は遠いような気がした。 また、風が向かい風になった上、強くなってきた。みんなも、仕事があり、その点も考えた。 前方の海坊主こと漁師のMさんは、モービルに前のめりにもたれるように背中を丸めていた。とても寒そうに見えた。おそらく、魚が取れる未明か早朝にも漁の仕事をしたのじゃないかと思われた。自分自身の余力を残した限界点と、これ以上、サポート隊に苦労はかけられないという判断から正午前に、みんなには、ルートの変更を申し出た。 なんとしても、岸にたどりついて、そこをゴール地点にしたいと。 結局、漁港のような場所じゃないと、陸に上がれないので、ここから最寄りの8キロ先にある浪速の漁港を目指した。といっても、ボクにとっては、遥か彼方にある漁港だ。ここまで、大体半分以上自転車に乗り、半分は押してという感じだ。 ただ、乗るといっても、人間が走るペースといったらいいだろうか、間宮海峡のように、モービルと同じスピードは出なかった。最初のゴール地点まで行ったら、夕方から夜になり、体の芯まで冷え切ったボクも含めたみんなの疲労は計り知れない。 【とうとう白い砂漠を横断した】 遅い歩みだが、目標となる漁港には、目に入る白い大きな建築物があり、その建物が彼方にポツンと見えた。そこが、ボクのゴールだ。リタイヤしたら、その時点でボクの負けだ。たどりついたら、勝ちだ。サポート隊のメンバーと、2日に分けて走破してもいいんじゃないのという声もあった。サロマ湖周辺の気象条件に左右されるからだ。 しかし、みんなきょう1日仕事を休んでおり、無理はいえない。 きょう1日がすべてだと思った。 20キロ地点。左足がつった。自転車に乗って足がつったのは、自転車歴30年のボクもはじめてのことだ。コース変更して正解だと思った。足には、そうとうに無理をさせた。自転車も雪まじりだ。氷点下10度近くで、良く動くなあと思った。 駆動系のチェーンや、後ろの6段ギヤのすき間にも容赦なく雪が詰まり、動きが鈍くなっている。ゴールまであと1キロ。サポート隊の5人衆の背中を見ていると、涙があふれてきた。男同士だから愚痴はいわないけれど、5時間以上も、ジット湖面にいたら凍えて、大変だったはずだ。サポート隊にとっても途中断念は、くやしいはずだ。 ボクは佐呂間の5人のサムライと、2年前の間宮海峡自転車横断をサポートしてくれたロシア人の姿を重ねあわせていた。ロシア人は、猛吹雪による断念だったのに、自分のことのように、泣いてくやしがってくれた。 苦節6年。とにかく、1つのことをやり遂げようとしている。そんな時に、送り出してくれた家族、会社の人たち、地元の人たちの顔が自然に思い浮かんでくる。しあわせを感じた。やがて、5・6人の姿が見え、近づいてきた。 白い砂漠のゴールだ。2月1日、午後2時20分。 佐呂間町渡らせ隊のメンバーが心をこめて作ってくれたゴールの横断幕の下をくぐり抜けた。前人未踏、1人の自転車野郎が、日本最大の雪と氷の湖を、証人とともに渡った歴史的瞬間だ。自転車で白い砂漠を渡りたい。間宮海峡の冒険から6年の月日をかけ、ゼロから出発した手作りの冒険。植村直己さんや、間宮林蔵の霊が見守ってくれていたのに違いない。 さくらうめこさんが、暖かい中華饅頭とコーヒーを持ってきてくれていた。冷え切った体のボクを含めた6人は、うめこさんの真心がうれしかった。 サロマ湖は、その時を境に風が猛烈に強くなり、夕方から猛吹雪となった。結局、翌日、翌々日と、湖面は荒れた。 【感謝、そして感謝】 2月1日の夜、うめこ亭で横断達成祝賀会が開かれた。 きさくな町長サロマバタフライさんも参加して、とてもにぎやかなものとなった。 ボクは、こんなに応援と期待されて、横断を途中であきらめないで本当に良かったと思った。その夜遅く、みんなが帰り1人になったとき、中に入れていた自転車スパシーバ号を、薄明かりで見つめた時、「あんな寒さの中、相棒のおまえも、故障もせずに、よくやったな」と、心で声をかけ、撫でてしまった。こんな気持ち、自転車乗りにしか分かるまい。 【白い砂漠よ】 佐呂間の冬は厳しい。間宮海峡で暮らす人々と同じだ。 厳しい寒さで撮影した間宮海峡の写真は、その写真を見せた人を驚かせた。 厳しい自然は、すばらしい写真を生むとボクは思った。 冒険の翌日も、佐呂間町のこどもたちが、吹雪の中、歯をくいしばって登校していた。 ボクが、道をたずねると、あとからついてきてまで正確に教えてくれたご婦人がいた。 バスの中では、運転手さんと、おじいさんが、まるで自分の家族のように世間話をしていた。佐呂間の人々のハートは暖かいのだろう、ボクは一度きただけで、佐呂間町のファンになった。北の大地に根ざす人の人間性に今の社会が忘れかけている一番大事なものがあった。 【エピローグ・いつかまた白い砂漠へ】 サロマ湖。念願の白い砂漠の横断達成の地として、ボクの心に刻まれた。自転車冒険は、生きる指針だ。白い砂漠は、ボクの心をとらえてはなさない。自然が作り出した芸術だ。光り輝くその舞台で、ボクは、またいつか、輝きたい。 6年間の苦難を分け合った愛車スパシーバ号。 白い砂漠の生まれない季節には、ともに、日本一周目指して、日本各地を駆け回っている。 ボクとスパシーバー号の白い砂漠への見果てぬ夢は続くだろう。 行く先々で知り合った人々への感謝の気持ち、「ありがとう」の言葉を残しながら・・・ 『情熱は世界を駆ける〜自転車野郎の冒険記〜』 http://www.hicat.ne.jp/home/akifumi/ |
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